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随分前、自分が高校生の頃だったか、もしくは高校生の頃の心を持ったままの大人だったか定かではないが、それくらい前に茂木健一郎さんが「僕たちは美しく生きていけるのだろうか。」という本を出版された。

本屋が好きで、その頃の自分は毎日のように本屋に行っていた。

やっとこのタイトルに巡り合った、という、そしてそれを茂木さんが書いているという、「この世の中に居場所がある」というある種救いのような想いを抱いて購入したことを覚えている。

今年は、去年は、来年は、もっと以前に、もっと年をとったら、過去に、

今過ぎている時間は唯一他者と共有出来ている儚いものであるのにも関わらず、今でない時間に想いを馳せるのは、それが「今」よりも遥かに生々しいものだからだったりする。あるいは「今」よりも目を向けていたいものだからかもしれない。

自分ごとで恐縮だが、この仕事を始めて、外で働いていた時分にもともとの心の柔さにに被せていた殻が剥がれ、何かを思い出しては泣く、ニュースに共鳴しては泣く、MVを見て、音楽を聴いて、インタビューを見て、頑張っている人を見て、泣く、というよりも涙が息をするように出てくるようになった。

それは鬱で心が動かない時の絶望と比べ、非常に気持ちのいいもので、しかしながらいちいち心が激しく動くことに体力を消耗した。それに疲れ、このままでは弱くなりすぎて壊れてしまうかもしれないと、今年1年だらだらと外の仕事を探して応募したりしていた。

 

思うような最期を遂げられる人は幸運だと、要は希少だと、現実は言い続ける。

それでも生きる道中、体についた傷を乗り越えるということは永遠になく、傷ごと最期まで体を運んでいく。

急に死が訪れるとして、もしくは死を選ぶとして例えばその瞬間に、その瞬間まで、美しく生きていたら。

もがく姿は美しい。苦しんでいる体も悩む時間も美しい。

理不尽を乗り越える手段を探す際、それを「美しい」とするだけで、全て意味があり、価値があり、崇高なものにさえなるように思える。

「美しい」は救いだ。芸術が「救い」であることと同じように。

耐えることのできない何かの中にいる間、「美しい」を救いにして前に進む。美しく生きていれば救われる。どんな終わりもハッピーエンドになる。例え意識が現実になく、儚いものを取り零して過去や未来ばかり見ているとしても。

耐えきれず無くした命も、不意に終わったしまった人生も、不条理に絶たれた人類の財産も、大変美しかった。

そして美しかったものは、今もこの先も永遠に美しい。

 

今年に限らず、零れ落ちていく大切なものの、総括に変えて。

2019-2020

 

 

 

 

 

 

 

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